交渉理論
− 分配的交渉分析の実験的アプローチ −
青井倫一
(慶應義塾大学大学院経営管理研究科教授)
『慶應経営論集』第8巻第2号, pp. 49-64, 1990.
<論文要旨>
相互依存決定の状況下における複数の主体間の利害の調整・解決メカニズムのひとつとしての交渉プロセスの重要性が最近注目されるようになってきている。この交渉プロセスのなかで2人の主体がひとつの事柄について交渉するのが分配的交渉である。この分配的交渉に対して実験的アプローチを採ることにより交渉における主要な課題を抽出しようとしたものであり,ポジティブ・サム・ゲームとしての交渉を成立させるための方法を実験を通じて模索した試みである。
1. はじめに
夫婦間,親子間,地域コミュニティにおいて,企業内部において,更には企業間や国家間において相互に利害が対立することによる紛争状況の出現は広範囲に観察される。そしてこれらの紛争状況の構図をよく観察すればそれらの紛争状況における利害の対立はゼロサム的な対立状況ではない方が多いであろう。たとえば夫婦間において夫は夕方の時間をベースボールの観戦に使いたいが妻は音楽会に行くことを望んでいる,しかし両者共に別々に行動するよりは一緒に行動することを強く望んでいる状況,企業としては取組むべきプロジェクトであることは各事業部とも理解しているが協力体制の構築となると事業部間の取分と負担の問題でもめている状況、世界相互依存経済の下において経済体制の安定化のもつ重要性は一致しているが国内経済・金融政策では自国の利害を優先する諸国政府・中央銀行,世界的なレベルでの環境汚染問題への取組の重要性では同意しても個別の実行レベルになると足並みがそろわない諸国家と,まさに“対立と協調”の並存する非ゼロサム的状況に我々は直面している。そしてこのような非ゼロサム的状況(ポジティプ・サム)において当事者全員にとってプラスになるような“WIN−WIN”の解決を図ることが望まれるのはいうまでもないであろう。
しかし上に述べたような紛争状況、既ち相互依存的意思決定問題における解決がいつもうまくいっているかといえばそうではない場合の方が多いであろう。この論文ではこの相互依存的な紛争で非ゼロサム的状況のひとつの解決方法としての「交渉」を主題にしたものである。もっとも相互依存的な紛争,利害の対立の解決方法としては,当事者が直接話し合うことにより合意に持ち込む「交渉」という方法のみならず,価格というシグナルを通じて利害の調整を行う「市場メカニズム」,「法」という制度の下で利害対立に結着を付ける方法,または「慣習・制度」という調整機構もあり組織においては「上位権威による裁定」もある。
このような調整メカニズムの好例としてT. Schelling(6)は交通信号を挙げている。信号のない交差路において利己的でアグレッシィブな2人のドライバーが出会う状況や,互いに遠慮しすぎるドライバー2人が出会った状況を想定してみよう。あるドライバーが迷わず直進するかそれとも速度を落とすかの意思決定の結果は交差路の他のドライバーがどのような行動を採用するかにも依存するという意味で相互依存決定問題となっている。無調整での交差点での状況は想像が簡単につくのではあるまいか。そして信号機という概念の発明は単にドライバーたちに優先権を指示するだけである。しかしこの単なる優先権の指示という行為がドライバー間の意思決定の調整を果し,無調盤での状況下で生じる可能性の高い好ましくない結果を消去しているのである。
この“信号機”を求めて経済学、法学,社会学,経営学の名の下に上に述べた種々の相互依存的決定問題での調整メカニズムの研究が精力的になされてきてそれなりの成果をそれぞれの分野で産出してきている。しかし現実の社会においては市場の失敗や調整する法が存在しない等上記の分野以外の調整方法が求められる場合が増大しており,したがって「交渉」という調整手段への需要も増加してきているといえる。しかし交渉そのものの研究というものは他分野に比較してさほど研究資源が投入されたとは思われないのである。歴史的には国際関係の領域において交渉は武力に次ぐ地位を占めてきており,ことに第2次世界大戦後は国際関係における紛争の平和的解決や安定の維持のためのメカニズムとしての交渉の持つ地位が上がり,その研究の必要性が叫ばれてきている。この領域ではIkle(3)やFisher(2)のような優れた著作もありまた日本研究としてBlaker(1)のような研究もある。このように外交,労働,貿易摩擦(日米経済交渉の分析等)と,固有の領域における紛争解決手段としての交渉を分析したものは多く存在するがその多くにおいては交渉そのものの分析はそれら問題において副次的な地位に留まるものであったといえよう。
また経済学においてはエッジワースの契約曲線上の点であればその結果はバレート効率ということが言えてもそれ以上どのような結果が交渉によって得られるかは不確定のためNashまではさほど注目を受ける分野ではなかった。しかしその後この分野での研究が精力的になされるようにはなってきたがこれらゲーム理論をべースにした交渉理論はまだ制約的な条件の下にある。 学問分野の交渉研究の進展とは別に,現実における紛争解決の知恵としての交渉の研究にも優れた著作、例えばNierenberg(4)等が挙げられる。そしてこれらアートの領域での交野研究,抽象的な世界でゲーム理論をべースにした交渉研究,そして学問の固有分野での交渉の研究らが統合・融合することにより交渉研究の進展がより盛んになると期待される。
ここで我々の交渉研究のアプロ−チを述べてみよう。それは実験的アプローチという表現が適切かと思われるが,簡単な事例を与えて実際に交渉を実行して(実験)そのプロセスを分析して交渉理論の構築の第一歩にしようとする試みである。実験用の事例であるから特にある固有分野(外交とか)を意識したものでもなく、また現実の人による交渉が行われるという点ではゲーム理論での研究が仮定している前提よりは幅のある世界である。これまでの交渉研究においては実際どのような交渉プロセスであってその理由は何故かという「記述的分析」(固有分野の研究に多くみられる)と,合理的な人はどうすべきであるかを分析した「規範的分析」(ゲーム論に多くみられる)が2つの流れであった。ところが現実の交渉の場においては“相手側がどう行動するかを分析する(記述的分析)こととそれを基底にして我々はどう行動すべきであるかの分析(規範的分析)の結合”が必須となる。我々としてはこれから交渉の場に臨む交渉者にどのような助言をすべきであるか,または紛争解決を交渉で行う時にどのような交渉メカニズムを第3者として提唱すべきかという課題に答えるのにはこの結合の分析が必要ではなかろうかと確信してまずは実験的アプローチにより,「交渉」という対象を分析していく。第2節においては交渉の類型化について述べ,第3節では分配的交渉の特質を展開し,第4節において分配的交渉の実験アプローチよりの成果を記述している。我々としては交渉研究が,単に相互依存的意思決定問穎での共同的紛争解決の方法の改善のみならず。一見ゼロサム的状況にみえる問題をいかにポジティブ・サム的状況に協力して変形していくか,まさに利害対立問届を協力してポシティブ・サムのゲームとして認識・定式化し、そしてそのような方向を探求する能力というものを養っていくことに役立つことを望むものである。
2.交渉の類型化
交渉を研究の対象として考えるとその対象領域は非常に広範囲のものとなるのは交渉が利害の相互依存的決定問題という形をとるからである。例えば交渉がなされる分野をみても安全保障や環境問題(海洋汚染や酸性雨等)、貿易を含めた経済摩擦などの国家間交渉から、合併や技術提携,購買などの企業間交渉,古くから研究されている貸金等を含めた経営・労働間交渉,そして個々人の生活活動において日常的な種々の交渉と非常に多岐に渡っている。そしてこれらの分野における交渉プロセスや交渉戦略は分野に固有な要素と密度な関連性を持っている。したがってそれらの分野における交渉を分析しようとするならばそれら分野自体の理解・分析が不可欠となろう。
また交渉において重要な要素である「人」の問題もまた研究課題として無視するわけにはいかないであろう。交渉におけるコミュニケーションのあり方、パーソナリティから態度・身振りなどの非言語的通信手段まで含めて「人の問題」も大きな課題である。しかしこの論文においては交渉戦略を策定するための分析のあり方を目指す過程の第一歩であるから,これら上に述べた分野や「人の問題」にはこの時点で系統的に踏みこむことは回避している。 ここで交渉というものを3種類に分類してみよう。それらは分配的交渉,統合的交渉そして組織的交渉と呼び,それらがどのようなタイプの交渉を模型化しているのかを以下に説明することにする。そして当論文ではそのなかの分配的交渉に焦点を当てて実験的方法で接近した結果を報告するものである。
1)分配的交渉
分配的交渉とはあるひとつの争点に関して利害のほば対立する2者の間で取引をするような交渉のことである。この分配的交渉は交渉の持つ特色を如実に表現できるものであり,詳しくは次の節で展開されることになろう。
2)統合的交渉
統合的交渉とは2者の間において争点が複数存在するような交渉である。各個別の争点に関しては上に述べた分配的交渉が適用されるが,この交渉においては交渉者は各争点間のトレード・オフを考えて総合的な見地よりみて交渉の合意を目指さねばならない。言い換えれば,比較的重要性の低い争点は相手に譲ってその代わりに重要性の高い争点において相手の譲歩を勝ち取るという“交渉”による成果が可能となる。したがって問題となっている争点に関しての対立する2者の間の価値関数が異なれば異なる程,“交渉”によって可能な成果のパイは増加することになる。そしてこの可能性をいかに実現するかがこの統合的交渉での課題である。分配的交渉においては交渉の成立が即バレート効率の達成を意味するが(分配の側面は別として)、統合的交渉では交渉の成立自体は必ずしもバレート効率の達成を意味しないのは自明であろう。そこで何故バレート非効率の点で交渉が成立したのか,それ以上の両者にとってベターな取決めが存在するのに何故それを実現できなかったのかということの分析が不成立の分析に加えて統合的交渉分析では必要になってくるのである。
価値体系や文化が異なるいわゆる異文化間の交渉においては,それらが国際的交渉であれ,私企業と非営利組織の交渉であれ,価値が異なることは取引できる領域が大きくなることを意味する。ある交渉当事者にとって比較的重要性の低い争点Aでの相手への譲歩という犠性を払うことにより比較的重要な争点Bでの相手の譲歩を勝ち取ることの可能性は,もし相手側において争点A,Bの重要性が逆転していれはより可能性が高いと考えられる。交渉当事者間の争点A,Bその他に関する重要度の差異をいかに当事者たちがうまく開拓するか。またはそのような方法をうまく設定するかが統合的交渉の分析におけるひとつの研究課題である。ところが何故このような交渉成果のパイのポテンシャルが高いこの分野での交渉がうまくはいっていないように現実では伝え聞くのであろうか。その理由としてはひとつには交渉相手側の争点に対する価値評価体系(価値関数)が理解し難いこと,しかしより大きいのは交渉において当事者が自分の価値評価体系を正直には表現しないこと,“戦略的に”価値評価体系を異なって伝達することにより“譲歩の交渉”によって自分に有利な交渉結果を得ようとすることによろう。このような本来の複数の争点に関する価値評価体系の当事者間の差異は交渉による両者共に利する領域の拡大を示唆しているにもかかわらず,“分配面”を考慮しての“戦略的な価値評価体系の表現”により統合的交渉を複雑な交渉プロセスにしているのが実験的アプローチによって観察されているところである。
また統合的交渉は分配的交渉と異なり,その交渉運営の手順でもひとつの課題をもつものである。それは争点のひとつひとつを順次交渉していって一度双方が了承した争点には2度と戻らない方法で交渉を行うのか。それとも争点全体をひとつのパッケージとして交渉する方法を採るのかということである(その中間にはもちろん部分的な争点の集合体をひとつのパッケージにするということもありうるであろう)。この点も統合的交渉をより複雑にしている側面である。
3)組織的交渉
組織的交渉とは上に述べた統合的交渉において各争点ごとに担当者が存在しそれら担当者の上に立つ者がその交渉チームの責任者として最終的な決定権限を持つという構造の交渉である。この場合、各争点の担当者の利得は必ずしも全体としての交渉結果の利得と相似形ではないのが通常であるので組織的交渉ではテーブルをはさんでの交渉を外部的交渉と表現すれば,交渉者チーム内での交渉である内部的交渉、即ち各争点の担当老間の利害の対立状況の解決のためのインプリシットな交渉も同時的に発生する。したがって交渉チームの代表者は実際の交渉相手との交渉である外部的交渉と、同じチーム内の各争点の担当者たちとの内部的交渉の2種類の交渉を並列的にマネジメントしていかなければならない。その意味で統合的交渉に較べて組織的交渉はより一層複雑な交渉構造を持っていると言えよう。
以上説明してきたように分配的,統合的そして組織的交渉は利害関係者の数は原則として2者で争点の数に相違のある分類方法であり,実験的アプローチに適した構造をもつものであり,交渉当事者が2者という点では3者以上の場合に存在可能な当事者何人かによる協調・共媒を除いているといえる。しかしこのような類型化とは異なりたとえば,Howard Raiffa(5)は交渉構造の分類における諸要素として次のような諸点を挙げている;
(1)利害関係者の数、
(2)交渉者が全権限を持っているか?、
(3)交渉は反復的か?、
(4)リンケージの可能性,
(5)争点の数,
(6)時間要素,ことに割引率の問題,
(7)秘密交渉か否か,
(8)第3者の介入可能性。
Raiffaはこれらの諸要素により交渉構造が異なる,更には交渉分析の視点もおのずから影響を受けると述べているが,分配・統合・組織的交渉の分類は上記の(1)及び(2),(5)をカバーはしているがその他の要素に対しては何ら触れていない。したがって実験的アプローチにおける分析もまた残りの要素の設定の仕方に応じた分析結果の評価が必要なことに留意する必要があることはいうまでもない。ここでRaiffaの挙げたいくつかの諸要素についてRaiffaを踏まえて私なりの展開をすることにしよう。
反復的交渉; 交渉が1回かぎりではなく何回も反復する性格のものであれば交渉当事者は繰り返される交渉全体での結果を考慮して行動する。したがってその部品的集合である1回の交渉は,1回限りという交渉とは異なる構造を持つであろう。現実契世界でもよく知られているように「評判」という要素が交渉プロセスにおいて大きな地位を占める変数となってくるのである。反復的交渉の場合は長期的な“つきあい”であるから,交渉それ自体は険しいものではなくなるのではという意見もあるが,「評判」という要素を考慮すれば,初期の段階では例えば“タフ・ネゴシーエーター”との評判を確立すればその後の交渉において有利であるという計算が可能になる。まさに評判とは交渉者の特性について他人がどう認知するかを表現したものであり,そこで「評判への投資」としての初期の交渉での“タフネス”もまた合理的行動となることもあろう。ただしこのような結論はある決定された回数の交渉が行われる前提での議論であるが,反復される交渉ではあるが反復される回数もしくは可能性がある確率分布に従っており、その確率分布を規定するパラメーターに過去の交渉経過が影響を及ばすような状況においては反復的性格を持つ交渉では,一回限りの交渉に比べて柔かい、即ち協力的ゲームとしての性格が合理的行動として導出される可能性があろう。
また反復的交渉は狭い意味では同じ交渉が同じ交渉当事者間が複数回繰り返される交渉ということであるが同じ交渉当事者間で異なる種類の交渉も反復されるような状況まで含めると現実には反復的交渉と近似できる交渉は多く観察できる。そして交渉においては交渉のための取引コストが必要となるのが普通であり,したがって反復的交渉においては全体としての取引コストを含んだ形での最適もしくはそれに近い満足できる範囲での交渉の作法というものの分析もまた注目を受けるべ課題である。ところでアングロ・サクソン系においては利害対立状況は1回毎に精算すべしという規範を持つのに対して日本や中国においては交渉を1回限りではなく反復的な性格のものに転化しようとする文化様式を持つといわれている。このような紛争解決に対する文化の違いとそれによる交渉の取引コストとの問題を紛争処理の社会的効率性の立場から論じることも「1回限りの交渉対反復的交渉」という対比図式から導かれる興味深い課題ではなかろうか。もちろんその場合も文化的な分析ならず経済合理的な分析が必須であることはいうまでもない。
リンケージの可能性; 交渉におけるリンケージとはある争点の交渉が行き詰まっている時に,別の争点を持ち込むことによりもとの争点を含めて解決を図る交渉戦略からその言葉が生じたものである。いわばある分配的交渉の過程において別の分配的交渉をリンクさせ,まさに統合的交渉の形にして解決を図ることでもとの分配的交渉の解決も図ろうとするプロセスである。米ソ間において安全保障の交渉に食料輸出の問題をからませたり、日本とニュージーランドとの間での農産物輪入規制の交渉にニュージーランド経済水域での日本漁船の活動許可の交渉をからませたりする例は最近よく観察されるものである。争点がexplicitに統合されている統合的交渉と異なり,リンケージ交渉戦略は争点をimplicitに統合しているのが異なる点であったが,最近の日本に対する諸外国政府の交渉態度はまさにexplicitに争点をリンクしてくる例が多く,このリンケージによる交渉解決の方法への態度は相互依存の政治・経済体制にどっぷりつかっている日本にとって今後は大きな課題となっている。
Raiffaは米国政府がフィリピン政府とフィリピンにおける米軍基地の交渉をする際,他の国における米軍基地に関する交渉もリンクして米国政府は対フィリピンへの交渉を考えねばならないという例をリンケージの例として挙げているが同様なことは諸外国との貿易に関する日本政府の立場にも適用されよう。したがってリンケージによる二国間交渉を志向するのかまたは多国間交渉(ガット等)を志向するのかもリンケージ戦略が多用されつつある現状日本政府の対応は慎重を要するであろう。
時間要素; 交渉が成立しその結果が同等であっても,いつ成立したかによって交渉当事者の利得が異なる,即ち時間コストが異なる場合も興味をひく交渉の要素であり,簡単化されたモデルでの結論は、時間コストの高い当事者は低い当事者に時間コストの差異を利用されるというものである。そして現実の交渉,ことに日本と米国政府や,米国企業と日本企業の交渉の場合,互いに時間コスト(割引率)の差異による対立という問題が生じてきている。したがって時間コストの差異をうまく開拓した形での紛争解決の方法の模索もまた交渉分析の課題である。
第3者の存在; 2者間の交渉の問題を考察してきたが,これら2者の交渉に第3者の存在が影響を与える場合がいくつか考えることができる。そのひとつは交渉がある期間を経てもまとまらない場合には第3者が裁定者として介入するケースである。このような裁定者の介入が最終的には想定できるような交渉において交渉当事者はどのような交渉戦略を採るかは裁定のスキームに依るであろう。したがってこの間題は裁定スキームの最適性の問題に連なることになる。また交渉の成果が第3者に対して外部性を持つ可能性はたとえば軍事紛争その他の解決交渉の例を想起すれば考えられよう。この場合に第3者の外部経済を内部化する方法を開拓すれは交渉当事者間の妥結できる領域もまた拡大することが可能になろう。
これまで交渉構造のいろんな側面を分析してきたがこれによって交渉構造の類型化が終了するものではとうていなく,より多くの側面が交渉分析の進展につれて浮かび上り,また分析の焦点をあてられることになろう。そして,それらの類型化そのものは交渉という方法により両者共に良くなるという“Both WIN”を目指すためメカニズムの開拓のためであるべきことはいうまでもないであろう。
3.分配的交渉モデル
交渉とは相互依存的意思決定問題を当事者間の話し合いによる“交換”によって問題処理していくプロセスである。その意味において交渉においてはManagement of Cooperation and Conflictが要求される。ゼロ・サム的状況においてはConflictのマネジメントが焦点になるのであって,そのような状況においては交渉やコミュニケーションの介入する余地のないことはよく知られている。交渉・コミュニケーションという表現が使われること自体,紛争の当事者たちは利害の対立状況をゼロ・サム的ではなくポジティブ・サム的状況であると少くとも無意識で認めているのである。
しかし適切な交渉方法、より一般的には交渉を含めての行動の調整メカニズムが存在もしくは適用されなければ,ポジティブ・サム的状況を開拓し損ない,結果的にゼロ・サム的状況に転化してしまう危険性を持つであろう。このことは分配的視点は別にしても効率的視点に立てばけっして好ましいことではない。そのような結果に落ち入ることを阻止するための“じょうずな交渉”とは何かの理解・分析が必要となるのである。
ここで分配的交渉というものを考察してみよう。第2節で示したように分配的交渉においては争点がひとつであり,当事者がその争点の処理に関して利害の“対立”状況にある。そこで簡略化のために甲・乙の当事者がある品物の売買の交渉をしている例を考えることにする。したがって争点はその品物の価格ということになる。そして仮りに甲を売手,乙を買手としよう。この価格交渉において当然両者とも交渉が不成立の際,どのような選択肢が可能なのかを考慮せねばならない。甲はその品物を乙以外の他人にいくらで売れるか,乙はその品物を甲以外から購入するとしたらいくらで購入できるかを考慮しなければならない。これらの可能性を表現したものを我々は「留保価格」と定義する。甲にとって品物が市場(乙以外を総称して)でAという価格で売れ,乙にとって市場(甲以外を総称して)からBという価格で買えると判断しているようならば,この品物の価格交渉において甲にとっての留保価格はA,乙にとっての留保価格はBということになる。これら留保価格はまさに両者にとっての交渉妥結の(機会)費用に該当するといえる。
そこでもしAとBとの関係が図1の通りであればBとAの中間における価格(例えば])で交渉が妥結すれはバレートの意味での効率的であるといえる。即ちBとAの間のいかなる値で交渉が妥結しても,不成立の状況(甲は価格Aで売り,乙は価格Bで買う)と比較して甲・乙共によりよい結果を得たことになる。まさにこのBとAの中間のどれかの価格に同意するプロセスが交渉における甲・乙の協調行為の本質であり,ゼロ・サム的状況ではこのようなことは生起しない。しかしこの交渉による甲・乙2人の成果は交渉が妥結する限りにおいて(BマイナスA)である。そして妥結価格の]はまさにこの成果を甲には(]マイナスA),乙には(Bマイナス])と分配する役目を持つ。分配的交渉の分配的という形容詞はこの面を表現したものであり,ここにおいては両者は対立状況となる。交渉において妥結価格]を求める両者の動きはこの協調と対立の両機能を同時進行させている,まさに交渉において協調と対立は同じコインの表と裏であることをこの分配的交渉は如実に示している。普通,交渉は協調ゲームであることも理解されているし,対立ゲームであることも理解されている。しかし,たとえは売手の甲が対立ゲームを意識してよりアグレッシィブに高い]を求めれば]はBを超える場合協調ゲームの側面を破壊してしまうであろう。といって協調ゲームであることを強調しすぎれば乙に上って共同の成果(BマイナスA)の大部分を奪われてしまい,対立ゲームで劣位に立ってしまう。まさに交渉における売(買)手の価格についての動きは協調・対立の両ゲームに同時的に作用していることをよく理解して交渉を行うことの重要を示している。
ここで留保価格という概念についてもう少し触れることにしよう,というのはこの交渉モデルにおいて留保価格は重要な要素であるから。まず留保価格は交渉の最中に変化する性質のものであろうか。そうではないことは留保価格の設定がこの交渉自体には関係なく,この交渉以外の世界(市場と呼んだ)に完全に依存していることで理解できよう。したがって交渉の開始以前において留保価格の分析が必要であり,また可能であることはこれから導かれよう。現実の場合においてはこの留保価格の決定分析自体も不確実性を含んだそう容易ではない決定分析であるが,本当に交渉の席を立つための条件である留保価格分析をおろそかにはできない。
では交渉プロセスにおいて留保価格が不変であるとしたら変化していくのは何であろうか。それに対しては分配的交渉における交渉プロセスを想定する必要にせまられる。そこで分配的交渉における交渉プロセスを次のような簡略化したプロセスで考える。普通はまず交渉当事者甲(乙)は初期提示額を示す。そしてその後,妥結に向って提示額を逐次的に示していく。その提示方式においては交互に示す方式が抽象モデルでは仮定され,また実験においても数多く観察されてはいるが,どちらか一方が一方的に提示し続けることもありうるであろう。そしてこのプロセス(人によっては交渉ダンスと呼ぶ)において,交渉当事者は相手の留保価格を読もうとする。まさに提示額のシーケンスはその情報を開示していると考えてよいであろう。交渉の初期において保持していた相手の予想留保価格の分布が提示という相手の行動を情報にして更新されていく。したがって交渉が経過するにつれ,相手の予想留保価格の分布が変化し,それにつれ,いわば目標妥結価格というものが変化していくと考えてよいであろう。また同時に自分の提示により相手は自分の留保価格についての情報を得ようとするのであるから,この提示額の応酬は,互いの留保価格推測をめぐる「戦略的な情報開示のプロセス」と位置づけられよう。したがって不用意な提示額のシーケンスは相手に対して不当なこちらの留保価格の予想を強いることになり,思いもよらぬ交渉結果を招く場合もあろう。
初期提示,それに続く交渉ダンスを経て最後には結着の段階へと至る。時間コストが無視してよい程度であれは交渉ダンスはいずれはある妥結価格に収束するであろうことが予想されるが,普通は時間コストの存在により何らかの終着をつけるメカニズムが採用される。それらメカニズムには「足して2で割る(split the difference)」方式や,どちらかが提示額を固定化する「コミットメント」方式などがある。
以上説明してきた分配的交渉モデルは,簡略化のための強い仮定が存在するという批判もあろうが,現実の交渉プロセスの持つ主要な要素はカバーしているモデルであろう。そしてこの分配的交渉において交渉不成立という効率性問題がなぜ生じるのか,また現実に交渉戦略の差異によって同じ枠組みから出発した実験的交渉においてどのような結果の分布が生まれてくるのかについて実験的アプローチの結果を次節で紹介することにしよう。
4.分配的交渉の実験結果
この節において前節で展開した分配的交渉モデルの構造を持つ交渉ゲームの実験結果を報告し,その教訓について議論することにしよう。使用された分配的交渉ゲームは「ストレイカー」という中古車の売買ゲームである。日本において個人間における中古車の売買という行為はあまり観察されることはなく,その意味では日本人にとって適切な交渉ゲームとは言えないが,ハーバード・ビジネス・スクールの「Competitive Decision Making」のコースで使用きれていて交渉結果の日米比較の興味もあって使用した。日本における実験の対象者は慶應ビジネス・スクールの学生と日本企業の若手社員でその平均年令は約30才である。ということはある程度の実社会での交渉の場を踏んできた人々であると解釈してよいであろう(サンプル数148組)。
表-1 分配的交渉ゲーム(ストレイカー)結果
| | | ハーバード・ビジネス・スクール | 日本 |
| 1) | 不成立 | 3% | 8% |
| 2) | 300ドル以下又は550ドル以上で成立 | 1% | 16% |
| 3) | 300ドルと550ドルの間で成立 | 96% | 76% |
| 4) | 3)の平均値 | 415ドル | 423ドル |
| | 標準偏差 | 52ドル | 67ドル |
ストレイカーのケースにおいて売手・買手の留保価格はそれぞれ300ドル,550ドルと与えられている。そしてこれらは交渉が不成立に終わった場合,売手・買手が市場と取引して達成できる価値であると,それぞれに与えられた個人情報に記述されている。したがって300ドル(550ドル)は売手(買手)にとっての私的情報の形をとる。また交渉においては一度限りの交渉とされているので「評判」その他の反復交渉での要素は除外されている。この交渉結果をまとめたのが表-1である。まず目につくのは不成立及び成立(交渉妥結)しても留保価格の定義と両立しない300ドル以下もしくは550ドル以上の割合が8%、16%とそれぞれ3%、1%というハーバード・ビジネス・スクールに比較して日本側が高いということである。不成立に関すれば、日本の実験の場合、交渉が1時間以内という制約の形での時間コストを付加している点が米国側のより弱い交渉時間制約に比較して異なる点である。しかしいくつかの交渉経過をグラフ化した図2における図2-1、及び図2-2を見ればすぐに理解できるように不成立よりは相手の提示を受理した方が良いにもかかわらず拒否した例が存在している。これは反復交渉ゲームにおいては「評判」への投資,即ち「タフ・ネゴシエータ」の名を取るための投資という正当化もあろうが1回限りの交渉においては意味があるとは思えない現象である。当事者たちによれば留保価格の理解不足ではなく,コミットメントしてしまいそれを解くことが互いにできないままにタイムアウトしてしまったとのことであった。また300ドル以下または550ドル以上での妥結の例に関すれば,もちろん中古車の売買に不慣れなこともあるのに加え,与えられた個人情報の解釈誤りもあったであろう。しかし一番多いのは後半のタイム・プレッシャーの下で交渉をまとめなければという“あせり”がこのような妥結価格になったとのことであった。この2つのことから導かれるのは、再び留保価格の持つ重要性と共に,コミットメントを解くスキルもまた必要であろうということである。新しい情報、交渉担当者の交代、第3者の介入などは結着段階におけるコミットメントを解くためのスキルであるが,1対1の交渉であるストレイカーではこれらのスキルがうまく適用され得なかったと考えられる。
一方,550ドルから300ドルの間,即ちバレート効率を達成した交渉結果においては日本の平均値が423ドルに対してハーバードでは415ドルとなっている。しかしその差を論じるのはそれぞれの標準偏差をみればあまり意味のないことがよく分り,妥結価格は日・米ともに550ドルから300ドルにかけて広く分布していると考えてよいであろう。ここで同じ個人情報(同じケースを与えられている)からスタートしているのにこのような差が生じるのは何故であるか交渉戦略を考察する立場にたてば興味深い課題である。ハーバードにおけるデータの統計的処理によれば初期提示額を“ふっかけた”方が妥結価格で優位な地位を保てるとの結果がでている。しかしそれは初期提示額の両者の平均が300から550ドルの中間であればという条件の下で。この条件は次のように解釈できる。交渉当事者は相手の留保価格を知らないのであるから上記条件が満足されているかどうかは分らない。しかし上記条件が満足されていないということは当然売手・買手のどちらかが極端な初期提示額を出しているという可能性が高い。その場合,相手も“ふっかけられている”ということを知っているので交渉プロセスがどう転ぶかは予測のつかないものになると考えられる。 ことに初期提示で極端な値を示す人々からの教訓としては,その後いかに値を妥結に向って譲歩してしくかのペースを考えずに極端な値を提示すると収拾がつかなくなるリスクが高いということと,一度“ふっかけた”後、本気に交渉しようとしても相手側になかなかその誠意が伝わり難い。言い換えれば一度心理的な壁を築けばそれを取り除くこと困難であるということである。もちろん極端な初期提示が留保価格に関する相手の予想分布を変更させえたら、それは分配ゲームで成功したことになる。しかしそのことを追求すれば“ラクダももう1本の追加の毛の重みで倒れる”という現象を招くであろう。図(2−3)や(2−5)は極端な初期提示が相手を硬直化させた例であり,(2-4)は成功した例であろうか。
もちろん初期提示が妥結価格についてのすべてであるわけでなく、その後の交渉ダンスにおいて連続した提示のシーケンス(譲歩のペース)が留保価格に関する情報の開示プロセスとして響いてくる。また譲歩のパターンにおいても双務性が存在することは(2−6)から(2−11)の交渉パターンから読みとれよう。極端な譲歩は好ましいことではない(留保価格の分布推定に雑音を与える)ということと交渉ダンスにおいてmustとwantの使い分けをするスキルの重要性が交渉ゲームを観察していれば考えさせられる。また(2-9)〜(2-12)のパターンのように初期提示が留保価格ゾーンに入っている場合においては協調ゲームよりは対立ゲームの方に比重が移ることにより意外と妥結までの時間は要する(図2においては残念ながら横軸は時間の推移を正確には表現していない)。
最後に結着のステージにおいては(2-11)と(2-12)を除けば「足して2で割る方式」が適用されている。この方式は結着の段階で妥結にもっていくのに便利な方式であるが、最後にはこの方式が適用されることをあらかじめ知っていれば極端な地位を維持する(強気で通す)方が有利になることは自明であり,もし両者がこのことに固執すれば,「足して2で割る」という知恵は逆に交渉を不成立にするリスクも含んでいるともいえる。
ところで交渉ダンスにおける売手・買手の動きは提示額を交互に出し合うというのが大多数であるが図(2-12),(2-13)は一方が何の提示もしない,もしくは何の譲歩もしないというパターンもあることを示している。このような例において一方的に捉示を求められている交渉当事者は情報の開示という点で不利な立場に置かれるのは当然である。交渉を始める前にどのような提示パターンを採用すべきなのかについて,まさに交渉における交通ルールについての交渉をすべきであったといえる。自然とそのようなパターンになってしまったと後悔している実験の当事者が多かったようである。
この分配的交渉モデルのストレイカーの実験に関しても改良すべき点は種々あるであろう。たとえばこの実験プロセスによりコントロールを強めなければ実験結果の信頼性において課題が残るであろう。まだ実験結果を有効に生かしているとはいえないかもしれない。そして実験の参加者のパーソナリティその他属人的情報との結合によりこの交渉分析はより有意義なものになりうるであろうし,交渉戦略の分析枠組を構築するためには多様な実験を行う必要があるだろう。しかしこの不備な交渉研究のための実験的アプローチでさえ交渉戦略策定上の重要要素を浮かびあがらせているといえるのではないか。交渉のテーブルに着く前には自分の留保価格の分析が必要なこと,また初期提示と譲歩のパターンは留保価格の情報を互いに戦略的に公開する場であること,そして終ばんにおいては極大化よりは満足化を求める形での結着をつける方法が必要であること,そして交渉を通じて分析の持つ価値が幾分ともあること,ことに交渉テーブルに着く前に相手の出方について何通りかのシミュレーションを行うことも有効であることなどが示されている。しかし一番有意義と思われたのはこの実験を通じて参加者が記述的分析(人はどう動くか?)と規範的分析(人はどう動くべきか?)の接点に交渉という場に立って考察・悩まねばならなかったということであろう。
5. おわりに
過去においては交渉というのは主としてアートの領域の問題であると思われてきたし,そのことは現在も否定するものではない。しかし紛争という相互依存的意思決定問題の解決の巧拙が個人・企業・国民レベルでの厚生状態に与える影響は徐々に大きくなってきている。そこで利害の対立状感を交渉で解決しなければならないニーズをまた増加してきているといえる。この交渉の巧拙における評価基準としては;
1)パイの大きさを拡大する,
2)パイの取分を拡大する
の2つが主要な基準で,それぞれ協調ゲーム,対立ゲームの特質である。したがって“うまい交渉”を目的とすれば交渉スキルとして「対立と協調のマネジメント」が必須のものとなるであろう。そしてこのManagement of Cooperation and Conflictが特別の人々にだけ必須というものでなく,広範囲の人々にとって必須となれば交渉というものは単に特別の人々のアートの領域に留めておいたり,単なる「運の世界」に委ねることができないことはいうまでもない。そのためには分析という視点でのサイエンスの領域を少しでも交渉という分野で拡大すべきであろう。このために国際関係論その他の,その分野において交渉が必須の構成要素になっている分野での交渉研究の促進や,ゲーム理論(ことに展開型ゲーム)をベースにした規範的交渉理論の進展と共にこの論文で展開した実験的アプローチによる記述・規範的分析の統合を目指す交渉理論の探求もまた必須となろう。そして交渉理論・研究はある交渉者への助言を与える交渉戦略のためだけではなく,世界的なレベルで生じている種々の利害対立の効率的・公平な解決,もしくは行動の調整メカニズムを摸索するものにならねばならない。ポジティブ・サム的状況であるにもかかわらず我々の紛争処理能力の未熟さ故にゼロ・サム的状況に転化させてしまうことは極力避けねはならない。
また交渉分析におけるもう1つの評価基準としては「公平」という概念があることはいうまでもなかろう。利害対立の裁定者もしくは仲裁者として交渉に臨む際には「効率」と並んで「公平」という基準が検討されるべきである。公平な調整メカニズムとはどのようなメカニズムであるべきなのかもこの論文では展開されなかったが今後の必須の交渉理論の分野である。たとえばよく知られている次の問題,「ひとつのケーキを2人の子供に公平に分ける方法は?」がある。方法が見つかるまでは何のアクションも許されないとしたら親子にとって“非効率”となろう。ひとつの方法はひとりの子供が好きなようにケーキを2分して,もうひとりの子供がまず最初に好きな方を選択するということである。この例は単にクイズの領域に留まることなく,海洋法における公海の下の地下資源(マンガン鉱)開発の南北対立の調整メカニズムにそのエッセンスが応用されている。複雑な問題も簡略化して分析し,その成果をうまくもとの問題に移転することにより有効な解決が待られる場合も多く,そこにおいて分析の効力も発揮されるのではあるまいか。利害対立の効率的または公平な解決方法としての「交渉プロセス」の分析の重要性は今後ますます大きくなっていくであろう。
最後に交渉の経験からの伝達をひとつ;「もし交渉ゲームにおいて勝ったとしても,そのことを相手に伝えることなかれ!」。
参考文献
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Copyright(c) Michikazu Aoi, 1990.